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言葉の響き

真宗の念仏申す生活とは

私の人生にとって本当に尊いこと(本尊)とは何であるのか。
そして何を「拠り処」として生きているのかを問うて下さる生活。

命そのものに深く根ざしている、生まれながらの願い(本願のいのち)に目覚めよと私に呼びかけ、その純粋なる願いに帰らさせて下さる生活。

商売繁盛、家内安全、無病息災、延命長寿、立身出世、福徳円満などは、私の欲望(都合・エゴ)を満たす定まり無き利己満足であれば本当の救いではないことを知らせて下さる生活。

亡き人々が私に贈ってくださる悲しみや痛み、そして嘆きは私に生きることの事実を知らせ今の生き方を問うて下さる声となり、亡き人々を諸仏といただく生活。

「ことば」の響き

私は大学生時代に胸に突き刺さる言葉に触れ、今の自分の在り方を深く振り返ったことがありました。
その言葉は「自己とは何ぞや。これ人世の根本的問題なり」。
これは浄土真宗の僧侶であります清沢満之(きよざわ まんし)という方の言葉です。
「自分は、一体何のために今ここに存在しているのだろうか。このことを明らかにすることこそが、人の世を生きる者としての根本的な問題である」という自己と人生を深く問うこの言葉が私の心に痛く響いたのです。
当時の私はこの言葉に触れることにより日々を怠惰に生きている自分を反省したのと同時に、この言葉に引っかかりその意味が知りたくて初めて浄土真宗の教えを聞いてみようと思ったものです。
そのことが、今も続いているようです。

ご縁あって現在は千葉県佐倉市において開教活動を行っています。寺院といっても皆様が常識的に理解されているお寺のような施設ではありません。農家を買って改修し仏間を設けて本堂としています。
この地で活動を始めたのが平成6年からです。今日までの活動の中で出会ってきたご門徒の方々との関わりから学生時代に学び習得したと思っていたことがことごとく破られたり、間に合わない事実を知らされ困惑しております。

その一つは、若くして夫を亡くされたご婦人との出会いです。家族はご夫婦と5歳と3歳のお子さんです。
生活を切り詰めながら貯金をし、親からの援助もあり念願のマイホームを建てることが出来たその矢先にご主人が急死されました。
マイホームを建てることを目的に贅沢は出来ず、苦労もあったけれども夫婦協力しての充実した日々であったそうです。過労が原因なのだろうか、突然倒れ治療も及ばず亡くなられました。
ご葬儀の数日後にご婦人がお寺にお越しになり生前のことや今後の不安などを語られました。
その話の中で次のような訴えを切々とされました。

「私は夫と共に貧しいながらもささやかな日々を送ってきました。育児のことや生活のことなどに 悩み、悲しみもし、いろんな苦労も一緒に分かち合いながら生きてきたからこそ頑張れたのです。
今、一人にさせられて、一緒に居たときよりももっと辛い生活を送らなければならないことを思うと、 耐え切れません。亡くなった夫を恨みたくなる気持ちさえあります。
ご住職はお話の中で「浄土真宗の教えは南無阿弥陀仏を称えれば救われる教えだ」とおっしゃいましたが、本当にそれで救われるのですか。」

このときは正直困惑しました。何故ならここまで真剣に救いを訴える人に出会ったことが今までに無かったからです。私は、次のことをお話しました。

仏教でいう人生観とは

人生とは悩み多いところ。つまり、生きるとは悩むことなのです。
しかし、悩むことに真向かいになることにより、人の痛みや辛さが分かる人になるのです。
悩むことの深い意味を南無阿弥陀仏は教えて下さるのです。

人生とは、悲しみに出会うところ。つまり、生きるとは悲しいことなのです。
しかし悲しみに真向かいになることにより身近な方との死に別れによる悲しみから、朝目がさめた当たり前のことが当たり前ではなく今ここに生きているということの確かめができるのです。
悲しみの深い意味を南無阿弥陀仏は教えて下さるのです。

人生とは、苦しみに耐えるところ。つまり、生きるとは苦しいことなのです。
しかし苦しみに真向かいになることにより、どんなに苦しくても生きることにあきらめない人であることが願われていることに気付くのです。
苦しみの深い意味を南無阿弥陀仏は教えて下さるのです。

この他長々とお互いに話をした最後にご婦人は「結局、浄土真宗ではこの苦しみは無くならないのですね、申し訳ありませんが浄土真宗はやめさせていただきます」と言って帰られました。
結果としてはいったんどこかの新興宗教に入られたのですが、しばらくしてやはりその苦悩は消えず浄土真宗の何かの本に出会い私のところへ電話がありました。
「住職さん、やはり人生は悩むところですね。そして悲しみに出会うところであって、苦労するところなんですね。実家に帰って両親と共に生活をすることになりました。」
この言葉をいただいてほっとするやら、自分の至らなさを反省するやら複雑な気持ちになりました。

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